机上、枝条、そのほか

机上、枝条、そのほか

2007-12-01から1ヶ月間の記事一覧

アフォリズムのリハビリテーション 第二百回

・わたしが20歳になるまで、私の詩の読者は三人しかいなかった。 一人はわたしだった。 わたしは、わたしの書いた詩をたんねんに読み、作者にファン・レターを出しつづけた。 高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

アフォリズムのリハビリテーション 第百九十七回

・性交しているとき、相手や自分の躰が性交のための機械みたいだと感じるのはさびしい。 S・Bと性交している時には、わたしはただ充たされた気持になるだけだ。 性交は対話的だ。 性交していても、マスターベーションのような時もある。それは悲しい。 高…

アフォリズムのリハビリテーション 第百八十六回

・「本当の事」がおれに見きわめられていない以上、すなわちおれは死に向って最後の一蹴りをする意志の力をもまたどこにも見出さないだろう! 大江健三郎『万延元年のフットボール』

アフォリズムのリハビリテーション 第百八十三回

・僕は最下等の生物さながら、この痛みと欠落感を胎んで単細胞生殖することができるかもしれない。 大江健三郎『万延元年のフットボール』

アフォリズムのリハビリテーション 第百八十一回

・批評精神が創造的行為に通じるためには、感受性の混濁のなかに、ひとつの結晶剤が点滴される必要があるのだ。 辻井喬

アフォリズムのリハビリテーション 第百七十五回

・僕が死に向って 少しずつ落ちて行く時 上昇するのは 僕の所有物ばかり 僕は置き換えをしたにすぎないのだ 過去を歌おうとする努力は 自分を探すことの 苦い それだけに下手な繰り返しでしかない 辻井喬「異邦人」(『辻井喬詩集』より)

アフォリズムのリハビリテーション 第百七十回

・彼は昨日より 明日よりしあわせ。 石垣りん「表札など」(『石垣りん詩集』より)

アフォリズムのリハビリテーション 第百六十六回

・たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、僕らは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるは…

アフォリズムのリハビリテーション 第百六十一回

・ああ!ぼくは安んじて眠るつもりだ、それがひと夜の眠りであろうと、または幾世紀にも続く眠りであろうと。眠ってしまったら差別はないはずだ。 サン=テグジュペリ『人間の土地』 コメント 人狼のかっこいい一日の終え方。

アフォリズムのリハビリテーション 第百六十回

・ぼくは答えているよ!ぼくは答えているよ!ぼくは力のかぎり答えているよ、ぼくは、夜の中にこれ以上輝かしい炎を上げることはできないよ! サン=テグジュペリ『人間の土地』

アフォリズムのリハビリテーション 第百四十八回

・彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。 サン=テグジュペリ『人間の土地』

アフォリズムのリハビリテーション 第百四十二回

・たとえバーナムの森がダンシネインの城に迫ろうと、女から生れぬ貴様を相手にしようと、さあ、これが最後の運試しだ。このとおり頼みの楯も投げすてる、打ってこい、マクダフ、途中で「待て」と弱音を吐いたら地獄落ちだぞ。 シェイクスピア『マクベス』

アフォリズムのリハビリテーション 第百三十八回

・世間を騙すには、世間とおなじ顔色をなさらねば。目にも、手にも、舌にも、歓迎のお気持ちを表わして、無心の花と見せかけ、そのかげには蛇とか。 シェイクスピア『マクベス』

アフォリズムのリハビリテーション 第百三十五回

・いまだ首吊らざりし縄たばねられ背後の壁に古びつつあり 寺山修司「田園に死す」(『寺山修司詩集』より)

アフォリズムのリハビリテーション 第百三十回

・てのひらの手相の野よりひつそりと盲目の鴨ら群立つ日あり 寺山修司「田園に死す」(『寺山修司詩集』より)

アフォリズムのリハビリテーション 第百二十八回

・地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針 寺山修司「田園に死す」(『寺山修司詩集』より)